2025年5月29日に開催された「Executive Connect」では、次期DXアジェンダとなる「支出管理への戦略的アプローチ」をテーマに講演・議論が行われました。
冒頭の基調講演では、アクセンチュア株式会社の梅原広行氏が、AIを活用した企業全体の業務プロセス再構築について解説。特に購買部門の効率化と強化に焦点を当て、AIによる購買プロセスの自動化、コスト削減、データ分析を活用した戦略的意思決定の向上を通じて、企業全体の再創造(TER:Total Enterprise Reinvention)と競争力強化を実現する新しいアプローチを提案しました。
その後、積水化学工業株式会社(以下、積水化学工業)デジタル変革推進部 部長の前田直昭氏をゲストに迎え、支出領域の変革に関するパネルディスカッションが行われました。
グループ企業168社という巨大組織の同社が、どのようにしてデジタル変革を推進していったのか。変革の全体像をうかがうとともに、チェンジマネジメントのヒントを紐解きました。
本レポートでは、そのパネルディスカッションの一部の様子をお伝えします。
経営危機意識の醸成とデジタル変革の位置づけ
積水化学工業のデジタル変革は、単なるシステム導入ではなく、企業の生存をかけた変革として位置づけられています。
前田氏は冒頭、「DXという言葉はあまり使いたくなかった」と語り、本質は「DXではなくSX(セキスイ・トランスフォーメーション)」として、変革するのはあくまで自分たち従業員自身であることを強調しました。
同社のデジタル変革の根幹にあるのは、「ESG経営を中心においた革新と創造で、社会課題解決への貢献を拡大し、2030年に業容倍増(売上2兆円、営業利益率10%以上)を目指す」という長期ビジョンです。
しかし、労働力確保の困難という現実的課題に直面し、「今変わらなければグローバルでの業容倍増どころか国内の維持向上も難しい」という強い危機意識を持っていました。
この危機意識を経営陣と共有するため、2019年に全社一丸となった変革を企画する「デジタル変革プロジェクト」を経営戦略部に発足。1年間をかけて経営陣と共に全領域業務部門の課題を整理し、「これから先10年で自社が負うであろう致命的なダメージ」を明確にしました。

変革動機となった4つの危機意識として、前田氏は4つの危機意識を挙げました。
- 労働力不足:現業維持・事業継続の危機(人手頼りの限界)
- ガナバンス:コンプライアンス・リスク管理における性善説からの脱却
- 全社最適の経営判断:グループ・グローバル最適におけるデータドリブン経営基盤の未整備
- 収益構造の変化:新技術・新ビジネスモデルへの適応遅れによる競争力低下
上記のような具体的で切迫した課題を「幹部研鑽会」や「DX役員会議」などで経営陣と共有することで、経営的な危機意識を作り上げることに成功。デジタル変革を「やりたいこと」ではなく「やらなければならないこと」として位置づけることができたと言います。
前田氏は成功のポイントとして、「他社の輝かしい事例ではなく自社内の具体的な事案や事例を集め、今変えなければいけない具体的な事象を共有することを意識した」ことを挙げています。
カンパニー制組織における変革推進の組織運営
積水化学工業は売上高約1.3兆円、従業員約2万7千人を擁し、住宅から環境・ライフライン、高機能プラスチックス、メディカルまで幅広い事業を展開する複合企業。同社の特徴は、カンパニー制を採用しており、「トップダウンは良い意味で弱い」組織文化を持つことです。
前田氏は「私たちは権限を各事業部に移譲し、遠心力を効かせて成長してきた。今さらトップから何かを統制するのはすごく難しい状況にあった」と説明します。同社のように、多くの企業が直面する「誰がDXを推進するべきか」という問題に対し、前田氏は「時代に合わせた危機意識を一番持っている人が推進するのが一番。これは若者でもベテランでも、年齢は関係ないと思います」と語ります。
実際に同社では、当時生産基盤強化センターの一課長だった前田氏自身がデジタル変革の旗振り役を担いました。社内の体制としては、Coupaのモデル導入までは本社と事業部の8名が中心メンバーであったものの、全社展開以降は工場で働く現場社員を巻き込んで推進していったといいます。
「事業部門のメンバーをいかに引き入れるかが重要」と前田氏。責任ある現部門長など立場がある人が案外一番変わりづらい人だったりもするため、「各部門の中で一番変わりたい、または変えていきたい課題認識を持っている人を選ぶことがポイント」だと主張します。
間接材購買の変革を起点とした戦略的アプローチ
積水化学工業はデジタル変革の初期に、営業・マーケティング、購買、ERP(製品導入)、サプライチェーンとものづくり強化といった様々なテーマに取り組んでいました。
そのなかで、間接材購買システム「Coupa」の導入をデジタル変革の重要な第一歩とした理由は「CoupaはQuick-Win(クイック・ウィン)で成果が出るため」だと説明します。

まず、デジタル変革の第一歩として「組織全体にいち早く小さな成功体験を味わってもらうことが重要だった」と前田氏。
「“自分たちでもDXに取り組める”というイメージがないまま、いきなりAI活用に飛躍すると失敗する」という考えがあったことから、デジタル化による恩恵が大きい購買領域を選択。「仮に失敗しても致命的ではない」という安心感から、直接材ではなく間接材領域から着手するに至ったといいます。
さらに、デジタル変革を推進していくためには、「標準的なシステム(SaaS)に業務を合わせる」という「Fit to Standard」の考え方に慣れてもらう必要がありました。結果的に、Coupa導入により「私たち自身が変わる」という姿勢を社内に醸成でき、以下のような業務改革に成功したといいます。
- 購買発注の承認プロセスの統一
- 独自の価格交渉履歴・ファイル添付文化の廃止
- 契約・発注書のCoupa一本化
- 30万円以上の相見積もり取得のルール化
将来的なデータ活用を見据え、全体的に属人性を排除した業務ルールに変更できました。

この戦略的アプローチは、多くの企業が直面する「何からDXを始めるか」という課題に対する示唆に富んでいます。事業に与える影響度のバランスを考慮しつつ、組織の変化への適応力を段階的に向上させていく手法は、他社にとっても参考になる事例です。
現場の抵抗を構造的に捉え、不安に寄り添う
同社のCoupa導入における最大の課題は、現場の抵抗をいかに乗り越えるかでした。
前田氏は「Coupa(システム)自体への抵抗勢力は一人もいない。人は今まで慣れてきたやり方から変わることへの抵抗があるだけ」ということを主張。この理解をもとに同社は、システムマップを用いて抵抗の根本原因を構造的に可視化しました。

具体的には、Coupa導入により利用部門に利用料が発生することで「せっかくのコスト効果が減ってしまう」という懸念や、単純に「やることを変えたくない」という感情的な抵抗があることを明らかにしました。
実際にこれらの抵抗要因に対し、使いやすいカタログの整備や、現場ニーズへの丁寧な対応などをおこなったといいます。前田氏は「いかにシステムが良いかをプレゼンするのではなく、現場の不安を取り除くことが重要」としています。
ただし「本当のWhyパーパスに向けては一切妥協していません」と前田氏。現場と常にコミュニケーションをとりながら寄り添いつつも、現場に引っ張られることなく、本来の目的へ導く責任を持つことの重要性を強調しています。
持続的変革に向けた人材育成と長期ロードマップ
積水化学工業のデジタル変革において、人材育成は重要な課題として位置づけられています。前田氏は「デジタル化がある程度できてきたら、各事業部門で使いこなせる人の数と、その人たちの挑戦行動の数と質が競争力になる」という認識のもと、独自の人材育成を展開しています。
ただし、「先行して人材育成だけしてもあまり意味がありません」と前田氏。なぜなら、研修後に各部門に戻ったら「そもそもデータがない」「上司が承認しない」などの課題が浮き彫りになり、行動に移せないことが多いためです。
そこで同社では、①事業課題や業務課題、②AIやRPA、BIツールなどの基盤、③挑戦する人、④社内コンサルチーム(領域によっては社外の専門家)が四位一体となって人材育成を構築。
この体制で現在第3期目を迎えており、非常に手応えを感じているといいます。
また、前田氏は2019年末に策定したデジタル変革のロードマップについても言及しています。

現在はロードマップ「展開・効果創出フェーズ」の最終年度を迎えています。支出管理の領域では、2024年度末時点でCoupaの国内全社・全拠点への導入が完了。システムの定着度合いは拠点によってまちまちではあるものの、ユーザー数は3,500を超え、全体の間接購買コストも10%〜15%の削減に成功しています。

取引データの取得が拡大してきたなかで、2030年度までの「定着・運用フェーズ」では、蓄積されたデータの活用、特にAI活用に本格的に取り組む予定だといいます。
今後はSaaSの継続的な進化を前提として、Coupaとの長期的なパートナーシップのもと、日本でリードできる支出管理の強化を目指すとしています。