
「Coupa Inspire World Tour Tokyo 2026」の超満員のメイン会場で、最も強い熱気と大きな反響を呼んだのが、元パナソニック コネクトCEOの樋口泰行氏と、競争戦略の第一人者である一橋ビジネススクール特任教授の楠木建氏による特別対談です(モデレーター:クロスリバー代表 越川慎司氏)。
AIエージェントが定型業務や予測・最適化を自律的にこなす時代において、**「人間の働き方はどう変わるのか」「日本企業の変革を阻む壁の正体とは何か」**について、特定の製品論を超えた本質的な経営論・組織論が繰り広げられました。
1. AIの本質は「人間の作業を外すこと」:定型タスクからの解放
対談の冒頭、楠木教授はテクノロジー史の文脈からAIの本質を次のように整理しました。
「産業革命の蒸気機関や新幹線と同じで、技術の本質とは『それまで人間がやってきたことを外すこと』。AIが人間を凌駕するのは当たり前であり、凌駕するからこそ技術として価値がある」
AIは確率的に「最も確からしい言葉」を繋ぎ合わせて作業を肩代わりしているに過ぎず、「自ら思考しているわけではない」と指摘。定型的な情報収集や要約、プレビュー作成などのバックエンド業務をAIが急速に肩代わりしていく中で、人間が本来フォーカスすべき「価値の置き場所」が根本から変化していると提起されました。
2.「スキルのデフレ」と「センスのインフレ」

本セッションで最も象徴的だった概念が、楠木教授が提示した「スキルのデフレ」と「センスのインフレ」です。
スキルのデフレ:
箇条書きの要約、プレゼンスライドの作成、英語の翻訳、財務分析といった「定型的なスキル」は、AI(究極に優秀な道具)によってコモディティ化し、急激に価値が下落(デフレ)する。AIは本質的に「過去データの平均値・中央値(高精度な凡庸)」を全力で出力するためである。
センスのインフレ:
ビジネスにおける真の競争優位やプロの価値は「平均値・中央値からの乖離(外れ値)」にしか存在しない。これをもたらすのが人間の「センス」である。
楠木教授は、センスを「状況、相手、時間の文脈(コンテクスト)に強く依存し、事前に客観的な正解基準がない中で下す『価値判断』や『意思決定』」と定義。スキルが誰でも手にできる時代になったからこそ、文脈を読み解き独自の意思決定を下す「センス」の価値が相対的に高騰(インフレ)していると語りました。
3. 人間力と共鳴力 ― 上流と泥臭い「人・組織の駆動」

数々の大企業で劇的な組織再生と経営改革を牽引してきた樋口氏は、経営のバリューチェーンを例に引きながら、人間にしかできない役割を力説しました。
「環境の変化を検知し、戦略を練り、アプローチを決める上流工程はAIでどんどん効率化・自動化される。しかし、最後に『この指止まれ』とメッセージを伝え、人に腹持ちをさせ、組織文化を作り、共鳴力で人を動かすエグゼキューション(実行)の領域は、絶対に人間にしかできない」
樋口氏はダイエー再建時代の経験を引き合いに出し、「現場の泥臭い苦労を分かっている人間、同じ苦しみを通ってきた人間の言葉だからこそ人は動く」と語り、ロジックや数値(KPI)だけで人は動かず、最終的には共感、信頼関係、そして人間力こそが改革の推進力になると強調しました。
4. 日本企業の変革を阻む壁 ―「スクラッチシステム」と「現場の心理」
モデレーターの越川氏から「日本企業の63%がいまだに20〜30年前のスクラッチシステムを使い続け、全体最適が進まない理由」や「調達・管理部門の平均年齢(53.7歳)と滞留年数の長さ(平均6.3年長)」という実態が提示されました。これに対し、両氏は以下のように分析しました。
全体最適を描くリーダーシップの不在(樋口氏):
日本企業は現場のボトムアップや部分最適が得意な反面、「業務プロセス自体をテクノロジーに合わせて一気に標準化する」というスケールの大きな全体最適の意思決定をトップが避けがちである。単に古くからのベテランの暗黙知を電子化・温存しようとするのではなく、ゼロベースで『本当にその業務プロセスが必要か』を棚卸しする覚悟が必要である、と語りました。
「スキル」主導から「好き嫌い・熱量」主導の組織OSへ(楠木教授):
現場が「AIに仕事が奪われるのではないか」と恐れる一方で、今の定型作業を心から楽しんでいるわけではない。これまでは「ジョブディスクリプション(スキル)」で人を管理してきたが、これからは「そのプロセス自体を楽しめるか、熱量を持てるか」という個人ごとの『好き嫌い』を中心としたエンゲージメントへ組織の軸足を移すべきである。
5.「AIを操る側」へ ― 最後に責任を背負い、意思決定を下すのは人間である

対談の最後、来場したリーダーたちに向けて「AI時代を自律的に生き抜くための決定的な姿勢」が提示されました。
楠木教授は古代ローマのリベラルアーツ(自由の技能=価値判断の基準を持つこと)を引用し、「AIエージェントは非常に優秀な奴隷(道具)であり、人間が自らの『価値判断の基準』を手放さない限り、AIを従える側(操る側)に立ち続けられる」と語りました。
そして、樋口氏が本セッションを次の言葉で締めくくりました。
「どれほどAIが進化しても、AIは絶対に『責任』を取らないし、リスクも背負わない。『私が責任を取るから、安心してこれでやってください』と背中を押し、腹をくくって決断を下せるのは人間だけ。最後は人間が責任を引き受け、AIを賢い道具として使いこなしながら、共に現場を変えていきましょう」